医療崩壊
医療崩壊 (98)

日本メーカーに打撃 EU「炭素繊維規制」は医学的に正当化できない

執筆者:上昌広 2025年6月4日
タグ: 日本 EU
「炭素繊維」は多種多様であり、それぞれの人体への影響は大きく異なる (C)fabrus / stock.adobe.com
EU(欧州連合)が自動車向け炭素繊維の使用規制を議論している。規制案の撤回検討も報じられたが、まだ先行きは不透明だ。規制実施なら世界シェアの50%超を握る東レ、帝人、三菱ケミカルなど日本製への影響は大きいだろう。だが、発がんや呼吸器疾患などのリスクが医学的に指摘できるカーボンナノチューブとカーボンナノファイバーを放置しながら、低リスクの炭素繊維を規制するのは矛盾している。

 4月9日付の日本経済新聞一面トップで、EUが自動車の材料に使用される炭素繊維について、原則として使用禁止を検討していることが報じられた。

 5月23日、日経クロステックは、「EU、車の炭素繊維規制案を撤回検討 25年末最終決定」という記事を掲載しているが、日経本紙で、この問題を取り上げておらず、先行きは不明だ。もし、撤回するなら、医学的に妥当な判断である。本稿では、この問題をご紹介したい。

「炭素繊維」は多種多様

 4月9日付の日経の報道によれば、廃自動車(ELV:End-of-Life Vehicle)に関する規制の改正作業を進めているEUが、その中で炭素繊維を新たに有害物質として指定し、自動車用途での使用を制限する方針を検討しているという。廃棄時に人体への健康リスクが生じる可能性があることが主な理由であり、改正案が成立すれば、炭素繊維に対する規制としては世界初となる見通しだ。新規制の適用開始は2029年以降が想定されている。

 このような規制が実現すれば、日本の素材メーカーへの影響は避けられない。特に、世界市場で50%超のシェアを誇る東レ、帝人、三菱ケミカルなどにとっては深刻な打撃となるのは必至である。

 EUが規制強化に踏み切ろうとしている背景には、炭素繊維を使用した製品の廃棄時に微細な粉塵が発生し、それを吸入することで健康被害が生じる可能性があるという懸念があるとされている。

 こうした議論を聞くと、私は強い違和感を抱かざるを得ない。というのも、「炭素繊維」と一括りにされているが、実際には自動車や構造材に用いられる炭素繊維から、電子回路や電極などに用いられる高機能材料、さらにはカーボンナノチューブやカーボンナノファイバーに至るまで多種多様であり、それぞれの人体への影響は大きく異なるからである。

 にもかかわらず、EUの議論ではこうした違いが十分に区別されておらず、むしろ意図的に誤解を招いているようにすら見える。日本メーカーを狙い撃ちにしているのではないかという疑念すら抱かざるを得ない。

有害性が示されているのは「カーボンナノチューブ」「カーボンナノファイバー」

 この件を議論する上で、まず強調しておきたいのは、現時点で人体への有害性が医学的に示されているのは、カーボンナノチューブおよびカーボンナノファイバーであるという点だ。これらの直径はそれぞれ1〜100ナノメートル、数十〜数百ナノメートルと非常に小さく、吸入すれば肺の奥深くまで到達する可能性がある。

 このことは以前から指摘されており、1998年には、その構造的および生物学的特性がアスベストと類似していることが、米国の科学誌『サイエンス』に掲載された。ここまでは、医学界でも広く共有されているコンセンサスといえる。

 さらに、これらナノ材料については、人体への毒性に関する知見も蓄積されてきており、動物実験では、肺線維症や肉芽腫の形成、遺伝毒性、さらには肺がんとの関連も報告されている。

 2018年には、米国国立労働安全衛生研究所(NIOSH)などの調査チームが、米国内でカーボンナノチューブおよびカーボンナノファイバーを取り扱う12の事業所を対象に、作業員への健康影響を調査した結果を公表した。

 その結果、作業員の18%の喀痰、70%の皮膚からナノ材料が検出され、さらに採取した血液や喀痰からは線維化や炎症に関連するマーカーの上昇が確認された。これらの所見は、ナノ材料による強い組織毒性の可能性を示唆するものである。

 同様の研究結果は他の研究グループからも報告されており、これら一連の知見を受けて、2019年に欧州委員会は、将来的な規制対象を事前に特定・公表する「SINリスト(Substitute It Now list)」を導入した。SINリストには、カーボンナノ材料が含まれており、国際的にも規制強化の進行を加速している。

 一方、今回問題とされている炭素繊維の性質は、カーボンナノチューブやカーボンナノファイバーとは大きく異なる。炭素繊維の直径はおおよそ5〜10マイクロメートルと比較的大きく、吸入しても肺の深部には到達しにくい。また、炭素繊維は化学的に不活性で、生体内で反応を起こしにくいことから、毒性は低いと考えられている。私の調べた限りでは、炭素繊維そのものの毒性を直接証明した臨床研究はない。

 これは国際的にも共有されている認識である。たとえば、カーボンナノチューブやカーボンナノファイバーで指摘される発がん性についても、国連の国際がん研究機関(IARC)は、炭素繊維を発がん性が確認されていない「グループ3」に分類している。

ただし、「断片の毒性」には懸念も

 もっとも、炭素繊維が「絶対に安全」と断言することはできない。現在懸念されているのは、炭素繊維そのものの毒性というよりも、加工や廃棄の過程で発生する微細な粉塵が健康に悪影響を及ぼす可能性である。加えて、製造工程で使用されるエポキシ樹脂や表面処理剤が、これらのプロセスを通じて新たなリスクを引き起こす可能性も否定はできない。

 この点においては、安全性への懸念を示唆する研究も存在する。例えば、2023年1月に独カールスルーエ工科大学の研究チームが『分子科学国際雑誌』に発表した研究によれば、ポリアクリロニトリルを原料とする炭素繊維を機械的および熱機械的に処理した際、処理物質のうち、それぞれ約20%、約9%が、世界保健機関(WHO)が「呼吸器系に健康リスクをもたらす可能性がある」と定義する粒子(長さ5マイクロメートル以上、直径3マイクロメートル未満)だったという。

 このような粒子を吸入した場合、人体が被害を受ける可能性は否定できない。現に、カールスルーエ工科大学の研究チームは、これらの粒子に暴露された線維芽細胞の培養実験では、炎症反応や細胞死(アポトーシス)、DNA損傷応答に関連する遺伝子の発現が顕著に増加したと報告している。

 このような研究結果を踏まえ、研究チームは、「ポリアクリロニトリル由来の炭素繊維の断片は、カーボンナノチューブほどの危険性ではないにせよ、潜在的な発がん物質として扱うべきだ」と指摘している。

 同様の研究結果は、独連邦労働安全衛生研究所やワシントン州シアトル退役軍人省医療センターの研究チームなどからも報告されており、炭素繊維断片の毒性は基礎研究のレベルでは証明されているといっていい。

必要なのは「職業暴露」に関する研究

 問題は、臨床的にどう評価されるかである。実験室での基礎研究と、臨床現場や実社会における研究結果が乖離することは、決して珍しくない。基礎研究は、しばしば現実離れした極端な条件下で行われるため、その知見をそのまま社会に適用するには慎重さが求められる。

 炭素繊維の毒性を議論する際に重要なのは、実際の職業現場における暴露が人体にどのような影響を及ぼすかという「職業暴露」に関する研究である。しかし残念ながら、炭素繊維については、こうした研究がこれまで報告されていないのが現状だ。そのため、人体に対する長期的な安全性については、いまだ十分な知見が得られていない。

 ただ、少数ではあるが、参考になる研究は存在する。その一つが、2020年3月に、イタリアのバリ大学の研究チームが『吸入毒性学』に発表したものだ。彼らは、航空機の胴体部分を製造する工場の作業者を対象に、炭素繊維強化プラスチックへの職業的曝露をモニタリングした。

 この研究によれば、空気中の炭素繊維濃度の中央値は7.0ファイバー/リットルだったが、作業員の呼気凝縮液からは検出されなかったという。この事実は、作業過程で微細な炭素繊維は発生するが、作業員は炭素繊維の粉塵を吸入していないことを意味する。通常の職場では、炭素繊維の粉塵は、大きな問題とはなっていない可能性が高い。

 もちろん、この一つの研究を基に炭素繊維は安全だと結論することはできない。異なる作業現場での追試が必要であろう。

 ただ、現時点では、炭素繊維が、アスベストやカーボンナノチューブやカーボンナノファイバーなどのように、発がんや呼吸器疾患などの長期的な合併症を起こす可能性は低いというのがコンセンサスだ。今回のEUの対応はやりすぎだ。医学的見地からは正当化できず、時期尚早であると言わざるをえない。

 EUも、このあたりは認識しているのだろう。その説明は苦しい。彼らが炭素繊維の使用を制限または禁止する際に、健康上の懸念として挙げているのは、廃棄時に生じる炭素繊維の粉塵が皮膚に付着すると痛みを伴うことだ。これは作業環境の改善によって対応可能な問題である。

 健康毒性が明白なカーボンナノチューブやカーボンナノファイバーを禁止していないのに、比較的リスクが低い炭素繊維だけを問題視するのは、政治的な意図があるのではないかと疑わざるを得ない。今回のEUの規制強化の議論に対しては、日本政府はもちろん、日本の学術界はエビデンスに基づき、冷静な反論を提示すべきである。

カテゴリ: 医療・サイエンス
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執筆者プロフィール
上昌広(かみまさひろ) 特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長。 1968年生まれ、兵庫県出身。東京大学医学部医学科を卒業し、同大学大学院医学系研究科修了。東京都立駒込病院血液内科医員、虎の門病院血液科医員、国立がんセンター中央病院薬物療法部医員として造血器悪性腫瘍の臨床研究に従事し、2016年3月まで東京大学医科学研究所特任教授を務める。内科医(専門は血液・腫瘍内科学)。2005年10月より東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステムを主宰し、医療ガバナンスを研究している。医療関係者など約5万人が購読するメールマガジン「MRIC(医療ガバナンス学会)」の編集長も務め、積極的な情報発信を行っている。『復興は現場から動き出す 』(東洋経済新報社)、『日本の医療 崩壊を招いた構造と再生への提言 』(蕗書房 )、『日本の医療格差は9倍 医師不足の真実』(光文社新書)、『医療詐欺 「先端医療」と「新薬」は、まず疑うのが正しい』(講談社+α新書)、『病院は東京から破綻する 医師が「ゼロ」になる日 』(朝日新聞出版)など著書多数。
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